[第83話]見附で花開く俳壇 六合庵茶山と半天庵雲涛

 俳諧(注1)は庶民が気軽に楽しめる文芸として、近世に大流行しました。越後・佐渡でも、身分を問わず多くの人が俳諧に親しんでいました。

 今回は、見附で活躍した俳人六合ろくごうあん茶山さざんと、茶山の活動を支え自らも俳人として活動した半天庵雲涛はんてんあんうんとうをご紹介します。

 六合庵茶山は寛政6年(1794)、周防国(現山口県)岩国藩士の家に生まれました。俳諧の旅に出、当時俳壇の巨匠であった桜井さくらい梅室ばいしつ(注2)や成田蒼虬なりたそうきゅうに師事しました。見附の嶺崎みねざき肝煎きもいりであり俳人でもあった山谷やまや衛門えもんが見附に訪れていた茶山を誘い、茶山は見附に定住することとなります。茶山は俳書の刊行に力を注ぎ、『梅草子』『常盤集ときわしゅう』『ひなさへずり』などを刊行します。特に『梅草子』『常盤集』は天保3年(1832)から文久元年(1861)にかけて29年間に渡り毎年発行され続けました。これらの俳書には、見附近郊の俳人だけでなく越後各地、また全国の俳人の句が掲載されています。「北越に茶山あり」と称され、越後だけでなく全国でも茶山の名は知れ渡りました。

 茶山の活動を支えた門弟の一人に半天庵雲涛がいます。雲涛は本名を渋谷傳しぶやでん七郎しちろう諸正もろまさといい、村松藩のお勝手方御用達でした。俳諧を茶山に学び、茶山の没後は『常盤集』刊行を引き継ぎ、『続常盤集』を刊行しました。雲涛自身も優れた俳人として評価された人物で、『海内俳家かいだいはいか人名録じんめいろく』などの俳人番付に名前が載っています。雲涛も越後各地の俳人と交遊しました。見附市指定文化財となっている『半天あん日記』には、慶応元年(1865)から明治2年(1869)までの5年間の俳諧や文人との交流が書かれており、地方で俳諧の文化を盛り上げた人物の生活を知ることができます。

 近世の越後では、庶民も俳諧を楽しみ、時には全国の俳人たちとも交流しながら俳諧の腕を磨いていきました。

(注1)…一人が五・七・五(前句)を作り、別の者が七・七(付句つけく)を続けるといった詩の連歌に、「滑稽こっけいさ(俳)」と「たわむれ(諧)」といった俗な要素が加わったものとして「俳諧」が生まれる。前句のみの五・七・五が発句として重視されるようになり、俳諧連歌は「連句」と呼び名が変わった。
(注2)…江戸後期の俳人。桜井梅室・成田蒼虬・田川鳳朗ほうろうの三人は天保の三大家と呼ばれた。

「海内俳家人名録」の画像1「海内俳家人名録」の画像2
【海内俳家人名録】(請求番号E1039-370)

「鄙さへずり(左)」と「六合庵連句(右二冊)」の画像
【鄙さへずり(左)】(請求番号E1309-371)【六合庵連句(右二冊)】(請求番号E1309-290・291)